瞼の中の闇を越えて辿り着ける場所がある。
優しい風と光に満ちた楽園がある。
空に雲、大地には花。木漏れ日にせせらぎ、遠い山に架かる虹。
―――光の世界は今ひとつ苦手なのだけれど。
やわらかな緑色の下草をそっと踏んで歩く。
この先にいるはずだ、わたしの愛しいものが。
しなやかな両の腕(かいな)をさしのべて、微笑みをくれるはずだ。
そう、この茂みを抜ければきっと…
「ドコ行くんだよ、リアラ!」
すこん!と後頭部をド突かれる。
慌てて振り向いたリアラの眼に、紫の衣装を纏い悪戯っぽい輝きを湛えた大きな瞳を持つ「彼」の片割れの姿が映る。
「おおッッ!何時の間に後ろにッッ!?」
「はなッからこッちにいたッて。
…妙な目つきでブツブツ云いながらフラフラ茂みに入ってくからサ。ナニやってンだよ」
「な…何でもないっ!」
かーッと顔が熱くなる。血色の悪いリアラの頬が、それでもうっすら桜色に染まる。
ごまかしたくて、わざと乱暴に茂みを分けて足を踏み入れた。
「あ、その向こうはガケだぞ」
「お」
踏み出した足がすかッと空を切る。
ずべべどがらごろごろごろ。
「おお〜〜ッッ!!」
べしゃ。
飛べばよかったのだが、動転したリアラはそのまま身長ふたつ分程の高さを転げ落ち、浅い川底に顔を突っ込んだ。
「ぷはっ!」
ナイトメアンが溺れるわけもないが、慌てて起きあがろうとして…
つる。どばしゃっ!!
川底についた手が滑り、盛大にひっくり返る。
「ぬおおっっ!?」
どべ。ばしゃ。ずべっ。どしゃしゃ。
そうこうしているうちに……
どべどぼどばばばば……
「のおお〜〜っっ!!」
どばしゃびたーーーーん!!
メチャクチャ痛そうな音がスプリングバレーの青空に響きわたった。
「あーあ…」
呆気にとられていたナイツは片手で目を覆って呟いた。
「あそこは滝壺っつーより、岩場に滝が落ちてるだけだからな…」
「…あ゛ー、死ぬかと思った」
「死なん、死なん」
滝の下で平たくなっていたリアラを引っ張り上げ、手近な木陰に坐らせてやってからナイツは苦笑する。
「何しに来たんだ?」
「いや…その」
逢いたくて…顔が見たくて。でもそう云うのは何だかこそばゆい。
「ちょっと…暇ができたから…な…ッて…」
少し口ごもってから、当たり障りのない返事を返す。やっぱり少し、ナイツの屈託のない眼差しは眩しくて…思わずヤケになってしまう。
「…えーい、判ってるくせにっ!云わせるかわざわざ!」
「あ…そっか…ん〜…ま、いいや。ゆっくりして行けよ」
頬染めてふてくされるリアラに笑いかけてやってから、ナイツはみえない笛を取り出してそっと唇に当てる。すうっと一つ大きく息を吸って、やがて透き通った音色が風に乗って流れていく。
リアラは頭の後ろで手を組んで、木の幹に背中を預けた。
光の中はやっぱり苦手なのだけれど。日差しも風も眩しすぎるのだけれど。
何で―――こんなに穏やかな気持ちで居られるのだろう。
判っている、解答(こたえ)。判っているけれど、それでも繰り返す自問。
「なぁ…ナイツ」
笛を吹く背中に声をかけたつもりだったけれど、届いてはいなかっただろう。
―――帰らないか?一緒に。
続けたつもりだったけれど、多分言葉にはなっていなかっただろう。
問いかけたところで、答えは一つしかないのだけれど。
おまえは夢の護り手、私は悪夢の番人。
だから。
ひとときの幸せと、ひとときでしかない切なさと。甘酸っぱさと痛みとを感情(こころ)に抱えたまま、だんだん瞼が重くなる。
「―――リアラ?」
ふとナイツがふりむくと、「彼」の半身たるナイトメアンは木の幹にもたれたまま、静かに寝入っていた。
「………………」
紫水晶の瞳と整った貌にかすかに切なげな微笑みを掃いて、ナイツはみえない笛で奏でる曲を、静かな調べに切り替えた。
ナイトメアンもときには眠る。夢を見ることは滅多にないのだけれど。
リアラを夢のない眠りから呼び覚ましたのは、ピアンたちの気配ともうひとつ、ナイツの笛(いつもより随分と静かな調べだったが)にあわせ……ているつもりなのだろうか、聞き慣れない歌声と楽器の音だった。
「……何だ?」
瞼を押し開けてみると、最近はリアラからも逃げなくなりつつあるピアン達に混じって、変なモノがナイツと自分をとりまいている。
色とりどりのぷるぷるしたモノたち。大きさはピアンと同じくらいか。喇叭を吹く奴、太鼓を叩く奴、歌う奴に踊る奴。リアラを見上げて「?」マークを文字通り浮かべながら首を傾げている奴もいる。
「なんだコイツら?」
「あ、起きたのかリアラ。
コイツら?『チャオ』とかいったかな。ビジターに聞いたけど、やっぱし現実界の生き物らしいゼ」
「チャオねぇ…」
「めちゃめちゃ個体数が少ないらしい。最近たまに来るんだ。
―――幸せな夢を見られる境遇を手に入れたのか、ビジターが連れてくるのかな」
へこへこ足下に這いよってきた、水滴型の頭をした水色の奴を抱き上げてやりながら、ナイツは微笑する。
(ああッ、ナイツ!どーせならそーゆー態度はわたしにッッ!!)
―――などと自分でも突っ込みを入れたくなるよーなコトを考えつつ、抱っこをせがんで自分にも群がり寄るチャオに当惑するリアラ。
その動作が彫像のようにぴた、と止まる。
「………ナ イ ツ…」
「ン?」
ぎぎいっ、と擬音をつけたくなる動作でリアラは振り向く。
その手の中には、一体の紫のトビチャオがぴーぴーと怯えていた。
「誰の子だああぁ〜〜〜〜ッッ!!」
「何だそりゃああぁ〜〜〜ッッ!!」
完全逆上モードに突入するリアラ。ピアンもチャオも蹴散らして、ナイツにとびかかる。
「ワタシじゃダメなのかああぁ〜〜〜〜〜!!う゛おおおぉ〜〜〜〜!!」
「血迷うなアホウ〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
両の眼から血の涙なんぞをだくだく流しつつ胸ぐら掴んで絶叫するリアラを、思わずナイツははり倒した。
なべてこの世は、こともなし(ホントか?)。